いのちの電話とボランティア活動

・島根県精神保健福祉協会誌「しまねの精神保健福祉VOL.42」に掲載されたものを承諾を得て転載いたしました。

島根いのちの電話 前理事長
精神科医 角 南  讓

 「いのちの電話」とは

国際いのちの電話連盟(IFOTES ;International Federation of Telephone Emergency Services)のホームページの冒頭にうたわれているのは「訓練されたボランティアによる、24時間の心のサポート」という言葉である。
ここにいのちの電話のすべてが込められている。いのちの電話は、ボランティアによる、それもしっかり訓練を受けた人達が、昼夜を問わず、特に人が孤独や危機を訴えることが多い深夜にまでも、その相談に応じる機関だというのである。
コミュニケーション技術や手段は飛躍的に進んでいるとはいうものの、人間関係は決してよくなってはいない。むしろそれは、表面的で不十分なものであるため、人は心から自分の思いを語ることができるような対話者をほとんど見出すことができない。本当に語るためには、親身になって聴いてくれる聴き手を私たちは必要とする。そして、そのような聴き手を見出すことは容易ではない。
このような状況の中で、共に生きようという連帯の精神とよりよい社会をつくりたいという願いから、NGOとしての緊急電話相談は開設された。この電話相談は、孤独や苦悩、絶望感にさいなまれている人たち、特に自死の危険性のある人たちすべてに常に開かれており、その一人ひとりと個別に対応する。悩んでいる人が、自分の現在の状況を正しく把握し、再びやり直す力が自分にはあると気づくことが、援助の最大の目標である。
ここで、島根いのちの電話の基本理念を紹介して、いのちの電話のアウトラインをお示しします。

「島根いのちの電話」の基本理念
いのちの電話は、自殺予防を主な目的とした相談電話です。この苦悩の多い時代に生きる者が互いによき隣人となりたいという願いから生まれた運動です。
この運動は、自分から進んで奉仕しようとするボランティア精神によって支えられている市民運動です。
ア.目的
島根いのちの電話は、1979年(昭和54年)7月に開局しました。いのちの電話は、自殺予防を目的とした、悩みごと相談電話です。
イ.特色
a.年中無休で毎日午前9時から午後10時まで、土曜日は日曜日の相談開始9時まで24時間連続して相談を受けています。
b.秘密は必ず守ります。また、お互いの宗教や信仰は尊重し、特定の思想信条に偏ることはありません。
c.話をかける側、受ける側ともに匿名とします。
d.相談料は無料ですが電話料金は、掛けた者の負担となります。
e.電話相談にあたる者は、定められた養成課程を修了し、認定を受けた相談員です。
f.面接相談は行いません。

 なぜボランティアなのか

情報の波にさらされ、今やどこにでもある携帯電話。そしてのべつしゃべりまくっているかに見える人々の心に巣くう「虚しさ」に、温かさを与えようという、市民のための市民活動として、専門家ではなく、似たような悩みや苦しみを味わったことのあるボランティアが、悩みを訴えている人と同じ目線に立って、共に苦しむ。わずかな時間とはいえ、その苦しみの道行きを共にしてくれたことが、相手に新たな力と勇気を与えてくれるのである。スイスの哲学者カール・ヒルティの言葉、「真の援助とは、その人の障害となっているものを取り除いてやることではなく、その障害を乗り越えていけるよう、その人の内なる力を呼び起こしてやることだ」と語っていることを思い起こすもよいであろう。

いのちの電話のボランティア相談員は、相談相手と同じ市民として相手の苦しみを我が事のように感じ悩む。そして、何とかならないかを自らも苦しむ。しかしこれが、悩み苦しむ人にとっては、大きな力づけになるのである。

電話というメディアが持つ特性として、第1に即時性、利便性があげられよう。情報を知りたいとき、伝えたいとき、話したいとき、まさに思いたったとき、「いつでも」「手軽に」アクセスを可能にする。第2に広域性というどこからでもアクセス可能とする特性は、遠隔地居住者や心身不全状態にある人々の社会資源活用における公平性を保障する可能性を有している。第3の非対面性という特性は、通話者相互の姿(視覚情報)を伝える機能をもっていない。その分、対面による会話に比べてコミュニケーションの内容や相互の理解度等の正確さを欠くきらいがある。しかし、相手の顔や表情が見えない分、率直な表現や要求、とくに否定的感情の表現を容易にするとも言える。第4の特性としての匿名性についてであるが、先の非対面性とも相俟って、かけ手の個人情報をかけ手側でコントロールできる。匿名という隠れ蓑をまとうことで、本当のことをありのままに語ることを容易にするからである。その意味で電話は公器ながらも利用者の都合次第で恣意的に利用できるメディアでもある。

この電話のもつ特性を最も効果的に生かせる利用法は、緊急・救急場面における危機介入であろう。刻々と変化する事態にあって、当事者の生命・財産の安全を確認するためのアクセスメディアとして、電話のもつ即時性・広域性等は最大限に活用されるべき価値を有する。さらに相談メディアとしては、匿名性という安全装置がかけ手の自己開示を容易にし、その真実への援助者の理解を深めるとともに両者間の親和性を高めることにもつながり、その関係性に支えられて問題への対処行動を自己決定できる可能性も期待されよう。

自死防止を目的とする危機介入的性格をもついのちの電話は、こうした電話の特性を最大限に生かした電話相談をその活動の中心に据えているのである。

いのちの電話の相談は通常の心理カウンセリングや精神療法といった援助ではなく、個人の善意に基づいた素朴で友愛的な対応を志向するものである。したがって、電話相談員は心理臨床に関する専門的知識やスキルを必須としない一般の市民ボランティアである。

もっとも、「自殺の危機が高く切迫すればするほど、効果的に処置するための専門的知識を必要としない」というリットマン(Litman.R.E 1965)の言葉に象徴されるように、危機的状況にある人にとっては、病理分析的治療的介入よりも、素朴ながらも心温かく受けとめられ、優越感ではなく友達のように語りかけられる体験がはからずも優れたカウンセリング的な効果をもたらしていることも少なくない。しかし、これはあくまでも結果であって、相談員が一次的に志向する目的ではない。相談員には、まずかけ手の話に素直に耳を傾け、語られる内容や事柄のみならず、そのように語らざるを得ないかけ手の苦渋や置かれている状況を我が事のように想像しながら理解するといった受容的・共感的態度が重要となる。それはもはや相談者―援助者といった上下関係あるいは指導・助言という役割よりも、「友として問題を一緒に受けとめて考えるという、対等な協力関係」(ビ・フレンディング)に相談員が身を置こうとすることを意味している。

相談員は心理臨床の専門性を必須としないボランディアとはいえ、相談員を志す動機や自身の精神健康度などをスクリーニングされた上で、電話相談の基本的スキルや危機介入などに関する一年余りに及ぶ養成研修プログラムを受講し、さらにその理解の程もチェックされてはじめて活動に参加することが許される。その後も引き続き定期的な継続研修を続けなければならない。

それは、どのボランディアにも、いのちの電話に関わろうとするからには、絶えず2つの事が問われているからである。それは、いのちの電話の基本理念に深く同意していることと、相談の質の高さに努めるという大きな課題である。とりわけ、後者の問題については「聴く」を踏まえた対話と、おしゃべりとでは全く別物なのである。「聴く」ことがどれほどエネルギーのいる、しかもアクティブで実りのある働きかを、私達が心底納得するのは容易なことではない。「知識はしゃべり、知恵は聴く」のである。忘れてはならない。

国際いのちの電話連盟(※原文では「イフォテース」著者に要確認)の倫理憲章では、「聴き手としての相談員の資質」について、電話相談の仕事は様々な社会的、文化的背景をもった人たちによって行われるが、相談員としての資格は、次の能力によって決定される。「聴く力、心の広さ、成長に向けて自らが変化させられていく覚悟」と述べられている。この「聴く力は、他人に対する関心がなければ、私たちは決してその人の話に耳を傾けることはしない。それも、ここでは悩み苦しむ人に目を向け、その語る声、時にはその呻きや沈黙にも耳を傾けようというのである。

「広い心」は、様々な人を受け入れる寛容さがあるだけではなく、「広さ」とは、一人ひとりの人生の歩みやそこでの思いに耳を傾ける用意があるということである。ある相談員の言葉として「人生はこんなものと自分なりに思っていたが、様々な人の思いを聴くうちに、違う光の当て方があり、違う見え方があることを教えられる」と。

3つ目の「成長に向けて自らが変化させられていく覚悟」とは、心の柔軟性であるとともに、自らに対しても開かれていることである。自分の思想や信条を鎧のように身にまとい、それを自分の不変不動の姿だと思い込んでいる人は、外目には立派に見えても、様々な思いや感情の多様さを受け入れていくことができない。相談活動を通じて、どんなふうに自分が変えられていくだろうかという「期待と楽しみ」を感じとれるようでなければ、相談員としては長続きしない。

さらに次のような約束が守れるかどうか。

 電話担当として月2回受け持つ負担に耐えられるか。そのうち1回は深夜に及ぶ。守秘義務、匿名はもとより、自死企図より、自分でも大変と思えるような問題を抱える人と相対していくことになるが、その気力と体力の覚悟はあるか。

 共感能力があるか。自分とは違う生き方や考え方をしている人たちの話を、共感しながら聴く事ができるか。

 自分のありのままの姿を認め、受け入れられるか。

 仲間と協力してやっていくことができるか。

 政治や宗教に公平でいられるか。寛容でいられるか。

 精神的強さがあることの必要性。心の問題を抱えていたり、精神科の治療や心理治療を受けている人が相談員になることはできない事を知らねばならない。

このように相談員に求められている資質は聴く耳のある、そして対話の能力ある、さらに相談員として学び続けて成長した自らを電話ボランティアの時を離れて一私人としての生活や地域社会の一員として生かすことにつながらなければならない。

 いのちの電話のはじまり

自死予防、自死防止をうたう電話相談は1953年11月、イギリスの電話相談機関「サマリタンズ」を嚆矢とする。立ちあげたイギリスの司祭、チャドヴァラー(Chad Varah.1911-)が語るいきさつは、およそ次のような要旨であった。

 聖職者としてデビューしてから18年目にあたる25才時、聖職者としての私の初仕事は、初潮を迎え、それが性病ではないかと悩み苦しんだ末自殺した14才の少女を葬ることでした。それまで自殺については何もしてこなかったのです。しかし、それからはあらゆる機会を逃さずに若者に性について教えるということをしていたので、25才にしてスケベ親爺のレッテルを頂戴しました。若い恋人たちが結婚の相談に来たり、心の離れていた夫婦が結婚についての導きを求めてやってきたりしたのでした。そんなわけで、1952年地方紙の編集長から性についておもしろい記事を書くよう依頼をされました。それは1960年代から70年代の米国や英国の風潮で性の解放や従来とは違う生き方を容認する寛容社会の到来を告げる先駆けとして、おそらく最初ともいうべき記事を寄稿したのでした。私を喜ばせたのは、ちょうど100人の悩む人々が私に手紙を書いて、洗いざらい話してくれたことです。その中で自殺願望があると私が思ったのは14人でした。その中で精神科医が要るのは一人だけでした。それから私は大ロンドンで一日3人の自殺者が出るということを何かの記事で読みました。我が素晴らしき福祉国家の医者かソーシャルワーカーの世話にはなりたくないとしたら、彼らはどうすればよいのでしょう。彼らはどんな人ならよいのでしょう。何人かは進歩的な考えをもっているということで私を選びました。命を救うことがそんなに簡単なら、それを正規の仕事としてやったらどうかと思いました。しかし、どうやって食べていくのか、そして危機の時にどうやって彼らは私に連絡をとるのかという疑問を自らに問うことになりました。
緊急の場合には、市民は電話をとって999を回します。電話を見るとそこには「警察」「消防署」あるいは「救急車」とも書いてあります。しかし、どこにも自殺志願の人専用の電話番号は用意されていないのです。私は、自殺志望の人専用に緊急の電話番号があってしかるべきだと思いました。
丁度そのような時、ある人の勧めがあって、ロンドンのシティ区の真ん中にある教会に応募してその面接試験の場で私は自殺専用の電話を設置することを提案したのです。するとこの街の実力者達は私の考えをやってみるに値することだと承認をしてくれたのです。そうして私が勤めることになった教会の電話番号は、かねてから欲しいと願っていたMAN9000としたのです。1953年11月2日から私は助手のヴィヴィアンともどもかかってくる電話の応対をしました。お手伝いを申し出てくれた人々の中から選んで私が電話に出られるまで待ちぼうけを喰うことになるお客に退屈させないよう相手をしてもらいました。
すぐ明らかになったのは、彼らの方が私なんかよりも、電話をかけてくる人にとって役に立つということです。誰でも失意の人の友となる人(ビフレンディング)を必要としていますが、私の助言を必要としたり、精神科医に紹介する必要のある人はほんのわずかでした。

助けは電話ほどに近し(Help is as close as Telephone)
1963年3月16日、オーストラリアのシドニーでアラン・ウォーカー(Alan walker)
が電話センター(Life Line)を立ち上げました。
 この組織はのちに、わが国のいのちの電話誕生の大きな支えとなりました。
博士はいのちの電話を自ら開設したときの感動を次のように述べています。

豊かにみえるシドニー市の底辺に、どのような広漠たる困窮の海が横たわっているか、わたしたちはほとんど知らないでいたのだ。第一週の終わりに、私たちが悟ったのは、そのような困窮の全領域に今後直面するだろうということであった。誘惑された人から敗北者まで、孤独な人からまさに絶望して自殺しようとする人、未婚の母になる悲哀の人、家庭が崩壊寸前の人、もう崩壊してしまった人、捨て子、家のない人、懐疑的な学生、信仰もなく老いて死の恐怖をもつ人。助けを求める様々な叫びが聴こえた。「一昨夜、妻が四百八十キロ離れた田舎の家から、シドニー行きの汽車に乗って家出をしてしまった。男はあわてて農場のトラックの中に子供たちをぶち込んで、妻を探しにシドニーに出てきたというのだ。無一文で泣き叫ぶ赤ん坊を抱えて彼に何かできるというのだろう。
市当局も、シドニーの人々も私たちのいうことを信用してくれた。助けは どんな形の助けも 手近の電話にあることを信じてくれたのである。助けは電話ほどに近いということを
(Help is as close as telephone)。

 日本における「いのちの電話」 ―そして島根いのちの電話

日本の東京で、「いのちの電話」をはじめようという話が出たのは、ドイツのミッドナイトミッションから派遣されて来ている2人の婦人宣教師の働きと、それを助ける協力会の人々の中からである。この2人の宣教師のうちの一人、ドーラ・ムデンガー女史が来日したのは、日本の売春防止法施行前の1953年であった。この人の努力で、1960年には東京永福町に、62年には千葉県の富津に施設ができ、「夜の女」として働く人々への伝道、保護、教育、再出発のための仕事が熱心になされていた。
この仕事の最大の苦労は、こういう女の人たちとどうしたら接触を持つことができるかという事であった。バーやキャバレーに直接出かけて行ったり、この女の人たちの出る街に行って話しかけたり、パンフレットを手渡したりするのですが、なかなか応じてくれません。相手にもしてもらえません。
こんな苦労の中から、いつ、どこからでもかけられる電話に気付いて、これを取りあげようと熱心に考えたのが、1960年に来日し、東京永福町の施設を中心に活動していたヘットカンプ女史でした。渡日後十年を経た1969年頃、協会の会員を中心に多くの関係者の人たちの熱意と協力によって、着々と電話開設の準備がすすめられました。1970年の夏、アラン・ウォーカーを迎えて講演会を開催、力強い支援と激励を受けたのでした。そして場所もルーテル教会の厚意で現在地に得ることが出来ました。
「いのちの電話」という名称が決まるまで、多くの曲折を経て、結局アラン・ウォーカーの「ライフライン」のラインが電話を意味することから決まりました。十数名の中核的人たちによって、いのちの電話の基本線が定められていきました。

 「島根いのちの電話」の開局

1979年(昭和54年)7月10日、全国7番目に開局しました。
前々理事長の古曽志恵洪氏の自殺防止へのひたむきな情熱と行動力に依って実現したものです。
 当時、島根県の自殺率は全国でもっとも高いレベルにあり、自殺防止活動の手掛かりとすべく県内自殺の実態の把握が急がれていました。保健所吏員であった古曽志氏と県嘱託医である精神科医らのグループによって県内自殺の実態調査が行われました。
 調査期間は、昭和45年1月から昭和48年12月までの4年間。県内で行われた自殺者のうち県内居住者736名につき、その全例を1例1例丹念に調査した ものでした。その調査結果は、何篇かの論文として報告されています。そして、自殺防止への働きかけは、とりもなおさず現代社会において疎外されている人間 性の回復と連帯を取りもどすことであり、精神保健の原則の拡充を図ることに他ならないと考えられました。
この調査結果を土壌として、島根いのちの電話が芽吹くことになりました。
いのちの電話発足に当って、東京いのちの電話、関西いのちの電話から手とり足とりご丁寧なご指導あったればこそ成し得たことでした。
 
その後の沿革
1. 2001年(㍻13年)12月、日本いのちの電話連盟とネットワークを組み自殺予防フリーダイヤル開始
2.2009年(㍻21年)11月、開局30周年
3.2011年(㍻23年)9月、震災フリーダイヤルに参加
4.2011年(㍻23年)11月、石見分室開設
5.2012年(㍻24年)12月、年間受信件数12,168件
 
参考文献
1. いのちの電話物語 アラン・ウォーカー著,大島静子訳 聖文舎,1972
2. 自殺予防と死生観 自殺予防研究会 星和書店,1979
3. 聴 新潟いのちの電話,いのちの電話 アスク(株),2005
4. 自殺予防いのちの電話―理論と実際,ほんの森出版,2013